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加藤晟(あきら)復活か?①

加藤晟が復活したとのウワサ!!
詳細をお伝えします。

まず、人物像から・・・・・


加藤 暠(かとう あきら)は、1980年代投機(仕手筋)集団「誠備グループ」を率いて「兜町の風雲児」と呼ばれた相場師


2003年、株式研究の会「泰山」を立ち上げ、業界に本格復帰。現在も加藤が手掛ける銘柄は「k筋」「k銘柄」などと呼ばれ、今なお強い影響力を持つ。


加藤暠は顧客の人望が厚く、医師・社長・政治家などの約800人の大口投資家を糾合し、「誠備グループ」と言う名の投資家集団を結成した。誠備とは、中国(山東省)発祥の宗教「道院」(注:道院の慈善団体名は「世界紅卍字会(せかいこうまんじかい)」である)に由来する。誠備投資顧問室を中心とする「誠備グループ」全体の投入総資金量は500億円を下らないとみられ、全体で1億株、時価換算では1000億近いと推測された。 世界紅卍字会とは笹川良一が当時代表を勤める宗教団体であった。こことのつながりはヂーゼル機器の仕手戦がきっかけとなっている。当初、この株は平和相互銀行創業者の小宮山英蔵と組んで仕掛けてきたものだが、次第に売抜けが困難になり大量の現物株を抱え込む結果を招いてしまった。そこで、加藤はこの相場の敗戦処理に笹川良一を利用しようと画策することとなる。その際に、四国88箇所めぐりをするなどして笹川の信用を得ようとしたとされる。その甲斐あってか、最終的にヂーゼル機器株は、一旦は笹川の三男陽平の名義となり、笹川のような右翼の大物に株が握られることを警戒した企業側に引き取られることで、昭和55年に終結が図られた。 一説にいうと糸山英太郎を一躍有名人にした中山製鋼所の仕手戦で得た利益が、流れているといわれている。


1980年頃の活動は、小型株に投機する「兜町最強の仕手筋」として注目を集めていた。特に、株式市場を支配する四大証券、野村日興山一大和を目の敵にし、「個人投資家主体の市場へ変えよう」と力説。これら大証券の推奨株で損をした投資家の共感を呼び加藤崇拝者が増大、最盛期には会員が4000人を超えた。会員の大半は株の素人、不況続きで、誰もが一発当てることを考えていた。破天荒な新しい時代の相場師として、「兜町の風雲児」とマスコミも大いにはやし立てた。


特に、誠備グループが全力投入した「宮地鉄工所の仕手戦」は有名であった。1979年12月から1980年秋にかけて、200円台だった同社の株価が急激に上昇、1980年8月下旬のピーク時には2950円の高値を付けた宮地鉄工株が上がるにつれ「誠備グループに入ると儲かる」という噂が広まり、急速に影響力を拡大していった。同社は、同グループにより発行済み株式の70%を買い占められ役員の派遣を受け"会社乗っ取り"に発展した。加藤は「株式の革命。資本家や大手証券にいじめられてきた弱小投資家の戦いだ」と豪語した。宮地鉄工所のほか、岡本理研ゴム安藤建設、石井鉄工所、丸善日立精機不二家、西華産業、カルピスなど、加藤が手掛けた銘柄は、黒川木徳証券のマークが片仮名のキをマルで囲んだ形をしていたため"マルキ銘柄"或いは"加藤銘柄""誠備銘柄"などと呼ばれ、どれも大きく値上がりし話題を呼んだ。加藤の影だけで相場が踊り、そのうち実際の加藤が手掛ける株が「ホンマルキ」、偽物は「ハナマルキ」という言葉も生まれた。1979年の所得は2億7000万円で日本橋税務署管内のトップに、1980年の所得は7億円を超えたと言われた。しかし、暮らしは質素。「車だけは仕事の都合でベンツを使っているが、若いうちは家は持たぬ」と話し住まいは2DKの賃貸マンションであった。


宗教にものめり込み、川崎大師伊勢神宮伏見稲荷秩父霊場には毎月、待乳山聖天にはほぼ毎日参拝した。四国八十八ヶ所にも度々を回った。この全ての寺に百万円の札束を御布施として置いたといわれる。伊勢神宮参拝も歴代首相も入れない一番奥まで参内を許されたという。またこの年世間を騒がせた「一億円拾得事件」のお金も加藤が落としたもの、と噂された。

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